Accipe quam primum

「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

M-1雑感

今年は諸般の事情であまり年末年始という感じがない。

リアルではまったくM-1の話をしてないんだけど(だからかもしれない)いまだにとろサーモン良かったなあ…良かったなあ…と思っている。決勝進出者が発表された時の動画を見て、よーく見ると久保田がガチでめっちゃ喜んで多分村田と喜びを共有しようとしている様子が分かるのでまた胸が熱くなる。和牛なんかめっちゃ涼しい顔。

自分が「本当に良い」って感じるものには何かしら暗い部分があることが少なくない気がしている。そもそもブラックユーモア好きだけど…共依存というわけではなく、改善すべき欠点というのではなく、そのモノや人の通奏低音的に漂っている何か。悪いことではないし、すぐそれと分かるものでもない。人が惚れるのはその人の弱さにである、というのと近いんだとは思うんだけど…その人の良いところも、その決して明るくない通奏低音が下支えしているような。それを何と表現するのが良いのかこのところ考えていたんだけど「アンダーグラウンド」はなかなかうまい表現かもしれないなあと思った。

「だから本当の笑いは、いつもアンダーグラウンドなところにある。それでも売れたいし、お茶の間に自分たちの名前を轟かせたい。その矛盾の中で笑いに妥協はできないけれど、野心を諦めることもできない、ということに最もM-1において葛藤し続けてきたのが、準決勝で、そして敗者復活戦で何度も惜しくも敗れてきた、とろサーモン

rockinon.com https://rockinon.com/news/detail/170359?rtw

私は全然とろサーモンが「アンダーグラウンド」な笑いだとは思ったことがなく普通に王道で面白いと思っていた。けどまあ和牛や銀シャリとかに比べたらまあ人間臭いというか、不器用というか、そうかもしれない。いやずっと安定して面白いんだけど。

たしかに、決勝の顔ぶれを知ったときにとろサーモンが優勝したらいいなとは思ったけど、とろサーモンの優勝はないだろうなとも思った。最終決戦の芋神様はばっちり決まっていたけど、あれがM-1の審査で選ばれマジョリティを獲得したことにはやはり驚きがある。M-1がなんだという気持ちもないわけではないけど、でもそういうものが形として報われたっぽいことに私もずいぶん感動してしまった。

アンダーグラウンドなものごとはわかりにくい。やっぱりとろサーモンみたいにものすごいちゃんと魅力というか、技術というか、プラスの要素を磨いて、それを自分でも受け入れていかないと(あるいはそれでも)厳しいようにも思う。基本的に持て余すよなあ…。そんなの気にならないくらい社会が寛容になり人々が多様化したらいいけど。

とろサーモンM-1優勝後に出たワイドナショーで、久保田が松ちゃんに女性ファンのことも考えて喋った方がいいんじゃない?みたいなことを言われたから(自分の個性については)だんまりを決め込んでみた、って話に、松ちゃんにも東野にも「それは違うぞ!」「面白くない!」ってダメ出しされちゃうみたいな。普通にできないことはなくても、それはお前の人生じゃないっていうか。だいぶ工夫が必要になっちゃうんだよね…。それはM-1獲ったからってなくなるわけではないけど、M-1後のTHE MANZAIは安定感増してて良かったし、少しずつ生き方に自信がついて良くなっていくのかもしれないけど。

うーんま、私はまだまだ頑張らなきゃいけないかなー。

WIRED日本版紙媒体休刊によせて

いつも未来に驚かされていたい:
『WIRED』日本版プリント版刊行休止に関するお知らせ

https://wired.jp/2017/12/22/oshirase/

 

WIRED、参考になることも多かったんだけどハイソすぎてついていけないことも多くて最近はまったく買ってなかった。しかし休刊に際してこんだけはっきりとメッセージを出すのはやっぱ良いな〜と思う。

 

「「デザインの起源は「違うもの」とか「無用なもの」をつくるところにあるって。人間を突き動かしてきたのは「機能」の追究なんかじゃないんだよ。道具というものの起源として、よく石を涙のかたちに削りだした「手斧」がよく参照されるけど、あれに関して重要なのは、「それが使われた形跡がない」ってことなんだよ」

 

「機能するということは時代遅れであるということである」

 

私は「機能美」が好きだけど、イタリアのアレッシィの製品とか見てると、あれは本当に美しいし楽しいけど、純粋に機能としてはどうか、っていうのがある。でもやっぱりアレッシィは持っていて使っていてワアアアア〜って高揚するからなんか説得されちゃう。自分で何かをデザインしていても、どうしてもちょっとした余分に思われる部分が魅力的だと分かることもある。デザインには突き詰めた結果の無駄があっていい。機能美と言っても、機能や役割だけ追った結果ではないように思う。

 

「あなたが人生に何かを期待するのではなく、あなたが人生から何を期待されているのか考えること、(フランクルは)、それが『責任』 なんだと言ってるんです」

 

ラカンの「欲望は他者の欲望」と同じ話だと思うんだけど、このバランスにうまく乗って生きられるかどうかっていうのもなあ、意識も努力も意味はあるけど、結構才能だよなあ…。

 

イリイチは晩年に「『未来』などない。あるのは『希望』だけだ」って言い遺しているんだけど、これも、なんかだか似たようなことを言ってるようにも思えて。未来に期待をして、予測をして、計画をしていくことで、ヒトも人生も、開発すべき「資源」や「材」とされてしまうことにイリイチは終生抗い続けたんだよ」

 

私もそういう生き方はしたくない、しかしこの圧力に抗することはやさしいことではない。万人が資本主義から適切な距離を取れますように。

男性のジェンダー観が変われば万人が生きやすい社会になると思う

Wezzyの『介護する息子たち』著者の平山亮氏へのインタビュー記事のノート。

 

「俺だってつらいんだ」に終始する男性の生きづらさ論/『介護する息子たち』著者・平山亮さんインタビュー【1】

http://wezz-y.com/archives/49449

 

男が男を変えるべき。「社会が悪い」に逃げない「わたくしごと」の男性学を/『介護する息子たち』著者・平山亮さんインタビュー【2】

http://wezz-y.com/archives/49587

 

「」は記事の抜き書きでそれ以外は私の感想。なんかもっとまとめたかったけどまとまらなかったけどもうものすごくホットでマスターピースな記事だと思ったのでとりあえず。もう、公にこんなふうにジェンダーを語ってくれる男性がいたのかという、それだけで目から鱗、号泣が止まらないレベルですね。。もっと早くこんな男性と、こんな文章と出会っていたかったですね。。抜き書きだけでも大変だったですね。。

 

「「感覚的活動」=ケアがケアとして成り立つために必要な目に見えない(=頭の中で行われている)準備や調整のこと」

 

「稼げる役割に駆り立てられる男性と、稼げる役割を奪われる女性を比べたら、結果的に自分1人で生きていくのが難しくなるのは明らかに後者です。」

 

「知ってもらうためにはどうすればいいか?という時点で、男性は「勝って」います。「知ってもらう」ために言葉を尽くして伝えなければいけない立場に置かれるのは、女性だということになるからです。そして、男性は「言ってくれないからわからなかった」「言われても分からない」「言い方が悪い」ということで、自分が「わからない」責任を女性に転嫁することができますから。男性の「わからない」は、自分が優位に立つための権力になっているんです。男性がそれを自覚しない限り、女性の不利な立場は変わらない。にもかかわらず、男性に自覚させる役割まで女性に求めるのは理不尽です。」

 

いつも挙証責任を負うのは弱者なんだよね。。

 

「本当の意味での交渉は、対等な立場になければそもそも不可能ではないでしょうか。(…)男性が「わかる」ように論理立てて伝える義務が女性にある一方で、それが論理的かどうかを判定する権利も男性が握っているのが今の男女関係です。」

 

ここでドラマ「逃げ恥」の話が出てくるんですが…あの作品はとても画期的だった。ああいうふうに関係を調整していけること、ヒラマサさん(星野源)のような「話せば分かろうとしてくれる」人、素晴らしいと思う。しかしその前に、女性は、ヒラマサさんがいたとて、みくりさん(新垣結衣)のように社会の現状や権力の非対称性を説明して、その上で自分の正当な権利を主張することができなければいけない。それだけでも「普通の人」にはかなり難しいんじゃないか。それってちょっとおかしいんじゃないか。やはり「普通」に変わってもらわなければいけないと思います。

 

「女性はもうこれまで散々言ってきたし、言わされてきたから。解決していないのは、男性がそれに応える気がまったくなかったからに過ぎません。男性に「聞く耳」を持たせ、変わるように仕向けるのは、私たち男性がやらなければいけないことです」

 

うーん本当にそうなんですよね。もうね、不公平だという結果はきっちり揃っていて、研究はされ尽くしているとさえ言えると思う。しかし、それに応える形で社会が変わっているかというと、まったくそうではない、変わっていない。私も研究を調べていたときにこれには本当に驚き、落胆したものです。もう女性はやれることはやってきたのではないだろうか。そういうことを受け止めてくれる発言だけでもすごく新鮮なんだよね…。

 

「「自立」した男性の基準は、しっかり働きに出ていることであり、その「しっかり働く」は、自分や家族へのケアを自分以外の人に任せることが前提となっています。」

 

つまり、男性にとっては現在のジェンダー役割を変化させることは、「二の次でよい」「解かなくて困らない」ことであると言われていて、まあ「(意識的にしろ無意識的にしろ)むしろ都合がよい」という人々もいることと思います。翻って女性にとってはジェンダーの「普通」はそのままでは大きな不利益を被り続ける「死活問題」であり、戦い続けなければいけないものであって。しんどい。

 

本当にね、そうなんですよ。必死なんですよ。そしてそんな自分がいやになってくるんですよ。好きな人から嫌われたり面倒くさがられるかもしれないよなあとかね。。こんな話男性の前ではもちろん、「普通」を内面化している女性の前でもなかなか難しい。本当は背負わなくていい事なんですよ。あるいは、みんなで背負うべきことなんですよ。それが人間社会の発達とか成熟とかいうことではないのか、と私は思うんだけど。。

 

「「自然」で「ふつう」の関係の中には不平等があらかじめ織り込まれているんだ、ということ。そして、性の自由とは、本来そういう不平等を強いられないことなんだ、ということを、若いうちから徹底的に理解させることは必要です。」

 

「自由って、そういう「自然」な状態で起こりうるパワーの違いを是正するための概念のはずなのに、「自然」な不均衡が原因で抑圧される誰かのことなんて気にしないで済むことを自由だと思っている人が多すぎます。」

 

セクシュアルハラスメントがセクハラと略され、軽々しく扱われているけど、「それって力関係の不均衡に基づく性暴力」」

 

「重要なのは、構造上、立場上、圧倒的なパワーの差があって、相手の言動に拒否したり反論できない場合があるっていうこと。それに気付かない、あるいは気付こうともしないで自分の好きにふるまうことが、ハラスメント」

 

「自分の意思とは関係なく持ってしまう権力に敏感になる、っていう、社会関係の当たり前があまりにもおろそかにされています。(…)意図とは関係なく、あなたの今のあり方自体が目の前の人を威圧したり脅威になっていないかっていうこと。それに一人一人が気づいて、意図とは別にできあがる力関係を恐れるところからしか、自由で平等な社会はありえないんです」

 

「「そんな男性ばっかりじゃない」と訴える男性がいますが(…)第二に、自分は「そんな男性」じゃないとしたら男は「そんな男性」を何とかすればよいだけのこと。逆に、女性に訴えるばかりで「そんな男性」の対処自体は誰かに任せているのだとしたら、「そんな男性」の方には手を出さないと言う意味で、男性の抑圧性を黙認しているのと一緒です」

 

ジェンダー関係の是正のためには、男性がいつの間にか持ってしまう優位性に意識的になることが必要なんですが」

 

「男性が優位の社会では、何かを訴えるときの「合理性」や「論理性」の判断も男性がすることになる。「合理的」で「論理的」じゃないから訴えが通らないのではなく、男性にとって受け入れにくいものが「ちゃんとしていない」という評価を受けてしまう、という男性バイアスがかかります」

 

フェミニズムがやってきたことって、他の女性が抱える問題を「他人の問題」として切り離して見ず、「これは、この社会で女性として生きる者の問題だ」「だから私自身の問題なんだ」と、「わたくしのこと」として引き受けるところから始まったんですよね。(…)でも、男性が男性問題を考えるときって、「わたしとは違う男性が起こしてしまった問題を、彼のようになるはずのない男性の私が解決してあげる」という姿勢が目立ちます。そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れていると言う価値観から、男性は全然抜け出そうとしていない」

 

あのーカミュが「魅力とは、明確な質問をしなくてもイエスと言ってもらえることである」と言ったとネットで見たんですけど、それが純粋に魅力である場合はまあいいかもしれないが、結構な割合でそれは権力関係の問題であり不本意だと思うんだな。私も男性には、社会での男性の優位性をもっと理解してほしいと思っている。そういう人ばかりだとは言わないが、無自覚な人が多いと思う。そしてその人たちの「普通」を変えることが、どんな人も生きやすい社会にしていくのだと思うから、その改善に向けて、みんな努力しましょう、という方向になっていってほしいと思う。

 

おつかれさまでした。

武器を捨てる美学

サプールの写真展がある(http://www.daimaru.co.jp/sapeur/)というので急に記事を漁ってえらい共感してしまった。

武器を持って戦争をしてしまったら好きな服を着てエレガントにステップを踏むことができないじゃないか?というのがサプールの思想。

(世界の95パーセントの人間はそれに共感できると思いたいが、好きな服を着てエレガントにステップを踏むよりも、誰かに武器を持たせて戦争させたい人間はいる、と思う。)

いや〜清々しい、人間こういう美学をなくしてしまったらいかんよなあ、と胸のすく思いだった。それ以外にも、ファッションのスタイルを体現する人々として、個人的に強く共感できる点がいくつかある。

1 金が無くても良い服を着る
私も生まれは貧しいけれど良い服を着たいという思いがなぜか強い質だと思う。多少の努力は惜しまずなるべく気に入ったものを着ていたい。この貧困と隣り合わせという点は、他のファッションアイコンには無いだろう。

2 派手な色遣いを楽しむ
まあそもそも黒人は派手な色が似合うんだけど…。私は派手な色も着ていて楽しいし面白いと思うんだけど、派手な色をこなしている人は周りにはいないので、贔屓目になるのかもしれない。

3 自国文化ではないヨーロッパの洋服文化を表現手段としている
まあこれも日本人と違い手足が長くてスタイルの良い黒人は、洋服が当然に似合うんだけど…サプールの洋服文化は、植民地支配を受けていたヨーロッパの文化なわけで、それでもそれを平和のための自己表現の手段とするというところがなかなか真似できないなーと。

私は洋服が好きだけど、日本人は本来和服の方が似合うんだけどなあ、戦争で負けたから入ってきて無理矢理日本式にしているようなもんだしなあ、洋服は白人や黒人に任せるべきなんじゃないかなあ、という葛藤が常にある。

「その父親が、たとえ悪い父親であったとしても、常に愛さないといけない。だから、パリのファッションを取り入れているんです」
「彼らは色々なことを教えてくれたし、スタイルについても同じように教えてくれたんです」
(サプールは、なぜ高級ブランドに身を包むのか
https://monoco.jp/article/sapeur-interview
分からないではないけど、私はまだこの境地にはたどり着けないんだよなあ。

さてググっていくとギネスビールがサプールのCMを制作していたとか。ギネスは結構広告が面白いんだよね。

ギネスビールが制作したサプールのショートドキュメンタリー
https://youtu.be/v2O5yfw20Yg

「互いの独自の美意識をリスペクトし、常に自分の美的センスを高く保つ事、平和を愛する事(作中に出演するサプールの一人は、戦乱で逃げ惑う中で服や靴を捨てねばならなかったエピソードを語っており、平和なくしてサップは存在しえないと述べている。)などの理念、時に互いの服や靴を貸与しあう事で、社会的地位、年齢の長幼、収入の多寡を超えて成立しうる概念である(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サップ)」

私が広告にはまっていた頃のギネスのCM。
https://youtu.be/2NzRSCIKUlk

オリビエーロトスカーニとかに感化されて日本にも少しはパンチの効いた広告表現が出てくるんじゃないか?と当時は淡い期待をしてたけど、昨今はそれどころか炎上案件ばっかりでもうやめれば?と思ってしまう。

さておき、写真展には行きたい。
グッズのダイカットふせんを買ってヨシダナギトークを見てサプールと写真撮りたい。
大丸心斎橋は解体前に写真撮りに行って以来行ってないけど。