Accipe quam primum

「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

収拾

がついてない。パソコンの周辺環境を整えるために片付けと模様替えをしている。今は主に本の整理でつまずいている。私は片づけが得意ではない。そのせいでずいぶん損をしていると思う。でもそういう育ちだったし性格もあるだろうし、仕方がない。そういう生活が上手にできないことについて、むちゃくちゃ努力してきたししている。それでもまだまだ辛いことも多い。辛い。私がこの辛さを引き受けなければならない理由はない。死にたい、という気持ちになってしまう。

間違った方向に行っているわけではない。確実に進んでいる。それはわかっている。でも本の整理は辛い。

まず本自体が重いということがあると思う。それは悪いことではなくて、ちゃんと物体として存在してないと忘れてしまうし、物体として本を持ってページをめくって線を引いて、という作業によって記憶に残りやすくなるということは確実にあると思う。

それから本を手に取ると、何かしら思い出して辛いということもある。大量の本を整理する場合には、大量の情報が否応無く思い出されるわけで、その対処がしんどいということも多分ある。

私は世の中の本好きからすればそんなにたくさんの本を持っているわけではないと思う。そんなに不要なものを持っている気もしない。でも、十分に収納できる場所を持っていない。余裕がない。それが辛い、というのもあると思う。まだ少しは工夫の余地はあるのだけれど…(関係ないけど、世のインテリア紹介みたいなものは大概本や服をほとんど持っていないような例ばかりで、私はまったく参考にできない。本と服をうまく収納したリーズナブルな部屋が見たい)

あとは、片付けている途中って、片付けが進んでいるのに、片付け前とか、ちょっと前の状態よりも散らかっていて悪くなっているように見えることがある、というのが挙げられるのではないか。

ここで自分としては断捨離として、一所懸命読んだ古典とか好きだったけど今はさほど見ることもない雑誌などを処分しようか悩んで、それを決めきれないのも面倒くささの一因かなあ…

ということをやっていると、あーほんと自分って面倒臭いなって自己嫌悪になりがちなんだよね。こういう風に過去みたいなものが嫌になってしまうのなら、やはりすべて捨ててしまう方が良いのだろうか。

ほとんどすべての人がそうであるように、本当に自分は自分のできる範囲でベストを尽くしたとしか言いようがないし、そのままよくやっているのだけれど、頭が痛い。

追記:
20時になった。少しずつやってはいる。不器用だ。6月の後半からずっとこんな調子で片づけている。それでもまだ終わらない。会社員として働くということは私にとっては、家の管理や自分のやりたいことと両立させるのが難しいことだったのだと思い知らされるような感じ。うまくやれるメンタルになれなくて何年も悩み続けてきたんだなという気がする。まだ答えが出ているわけでもないけど。

うーん近藤麻理恵の本をもう一度読み直してみよう。

追記2:

MacBookガイドブックを20ページくらいやってみた。すでに知らないことがいっぱいあった。

まだ自分が何ができて何がやりたいのかよく分からないところがある。それでも進んではいるんだけど、歯がゆいというかまだかまだかと思う。

しつこく古いiMacを外付けモニタにできないか調べ続けていたけど、やっぱり無理そうなので、やっとリサイクルに出す決心がついた。今までありがとうございました。

最近のブログはシフト+エンターで改行なんですね。今日まで知らなかった。