Accipe quam primum

「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

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「でも俺は本当は親密さがほしいんだ。全てを預けてしまえるような種類の親密さが。これまで持ってきて作ってきて溜め込んできたものを一度に全部投げ出してしまっても平気の余裕の楽勝の親密さがほしいんだ。(舞城王太郎『煙か土か喰い物』)」

 

雨宮まみ氏が亡くなってから彼女の文章を彼女の作品として読むようになった。

以前から知ってはいたものの、特に興味を持っていなかった。彼女は私と同じように生きづらいタイプの人ではあったようだけど、まあ基本的には「普通の家庭の普通の子供」。以前少々文章を読んで私にはやはり得るところが少ないと感じたため、それぎりになっていた。

しかし亡くなってから、友人がわりと好きだったという話も聞いて興味が出たので「40歳がくる!」という連載を読んでみると、かなりのところ共感できることを書いていた。今回は彼女のはてなブログ「戦場のガールズ・ライフ」から実質的に最後の記事「死にたくなる夜のこと」を引用しながら自分語りします。

http://mamiamamiya.hatenablog.com/entry/2016/06/08/031212

「この苦しさがあとどれだけ続くのかと思うと、耐えられなくなって、ベランダからじっと地面を見つめるときがある。冷たい手すりを握って、いつでもこの苦しみと決別しようと思えばできるのだ、と心に言い聞かせる」

死にたいというより、苦しみが続くのがつらい(乗り越えてたどりついて生きててよかったと思えそうな楽しみが無い)ので逃げたい、ということなんだよね。死にたいと言ってしまって心配されたとしても、そこは変わらない。

私は死にたいと言うとき、何を期待しているのかわからないけど言った方が楽になれる気がして言ってしまう。いや、それでもちろん誰か奇跡的に愛してよい人が抱きしめにきてくれて一緒に眠ってくれたらそれで済むと思う。でもそれは期待できない。そういう可能性があるんだったら死にたいと言わずにその人に愛していると言うだろう。わざわざ誰かに死にたいと言って憐憫や自らの孤立を煽って楽しいわけではまったくない。

「「死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ」

そう、そうなのだ。私は死にたいと言ってしまうとき、私のことを多少なりとも気にかけてくれる友人たちに一番伝えたいのはこのことなのである。彼らとの交流は私にとって感謝すべきことがらであり、それは疑いがない。それはそれとして、それとはまた別の問題として、私は彼らのせいでもない、私が全部悪いわけでもない問題に苦しめられている。そして、自分で努力してはきたけれども、生きたいほど自分を癒せていない、そういう場所にもいない。苦しみが続いていてどうにもできなくて追い詰められてしまう。というだけなのである。まあ雨宮氏と違って私の場合、相当に社会の仕組みが悪いと思ってはいる。

「時間が経てば、こんな傷、何も感じなくなるときが来る。経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているんだろう」

私は、ただ時間が経てば何も感じなくなるとは思わない。心が閉じて硬くなることはあっても。雨宮氏は30代後半で大きな失恋をされたようだから、そのことを言っているのかもしれない。

「この先の景色を見たい」という気持ちが、わたしにはない。いつも、ずっと、一度もない。「この人と一緒の時間を過ごすには、残りの人生は短すぎる」と思ったことは、一度だけある」

私も、やみくもにでも自分の将来を楽しみにすることができなくなってしまった。何か日々の辛さを受け止めて楽しみにできることも無い。

その時々に集中してその時々を楽しもうとする、というのが一番だろうと意識してはいる。でもそもそも、楽しみがあったり、基本的に大丈夫だとか思っていられるから、現在に集中していられる、という話なのであって、私はそこがとても弱い。

一生じゃなくても、しばらく誰かと一緒に生きていけたら、誰か頼っていい人が作れたらと思うけれど、これから出会いを作れたとしても、これまでのことを措いて一から努力できるだろうか、希望を持とうと前を向けるだろうかという不安がある。それは相手にも言えることだから、余計にハードルが高い。20代の時にはそうは考えなかった。また別の怖さはあったけど。

「手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。(…)明日が、強烈な一日であるように。(…)引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように」

これは痛切で空虚な願いだと思う。私も何度も引き返してきた。私は勇気がない、こんなに苦しいのに楽になることを選べないなんて情けない、と思ってきた。引き返しても「いいんだ」を作れる自分ができていくわけでもないのだ。

死ぬのでも生きるのでも、自分の生に納得したい。「仕方がない」はさんざん思っているのだけど、「まあいいか」「悪くない」というように自分を、社会を許せたことがない。

幸せな普通以上の家庭の子供が、幸せな普通以上の暮らしを再生産することはとても多い。私はそういう人間に生まれることができなかったし、その上に(だからこそでもあるけど)雨宮氏のような生きづらさもある。未だに自分の人生のなんとなく「まあいいか」という方向すら見えない。毎日そういうことを実感して生きていかざるを得ない。あ、もう、ほんと、勘弁させてください、って感じです。